平和はすべての人々の権利

8月は平和に思いをはせる月です。「広島平和記念式典」「長崎平和祈念式典」「終戦の日」「お盆(盂蘭盆会うらぼんえ)」など、戦争に関する話題が増え、先祖や故人を偲びつつ命を考える機会が続きます。そして、8月には全通研集会~サマーフォーラムが開催されます。今年徳島県で開催されたサマーフォーラムは、4年ぶりの対面形式の集会となりました。3年前、石川で予定されていたサマーフォーラムはコロナのため中止となり、2年前と昨年のサマーフォーラムは開催地以外の方々はオンラインで参加する形式となりました。このように、当然あると思っていたことが突如制限されたり奪われたりすることで、初めて「ある」ことのありがたさを感じるものです。

全通研集会~サマーフォーラムでは講座と分科会があります。4つの講座の中には必ず「人権」をテーマにしたセクションがあります。今回も、記念講演に始まり諸講座で人権と平和のことが語られました。日々、それなりに暮らせていると「平和」を意識することは少ないかもしれません。そもそも平和は空気と同じように、すべての人々が意識せずに享受できるものであるはずです。ところが、あって当たり前と思っていることがある日突然奪われてしまう、誰かわからない人の思惑や、逆に多くのは人々の無関心によって、平和は簡単に壊れてしまうのです。私たちは、歴史から人類の多くの失敗を学んでいるはずなのに、なぜか、人類は平和を壊す行為を繰り返してきました。

今年、平和記念・祈念式典の中継で、式典会場の手話通訳者が映りました。しかし、場内の音声情報すべてに通訳が付いたわけではなかったようです。さらに、番組のアナウンスやナレーションの手話通訳はありませんでした。昨年5月に「障害者の情報アクセス・コミュニケーション施策推進法」が制定され、9月には障害者権利委員会の勧告(総括所見)が出され、政府や社会は障害者が等しく情報にアクセスできる環境を整備することと述べられました。法律制定や勧告によってすべてが一気に改善するわけではありませんが、国民にとって大切な機会なのに、まだ手話話者は参加を保障されないのだなぁと感じる出来事でした。このようにことに引っかかるか、気づかないまま通り過ぎるかが、平和を守れるかどうかの分岐点のように思いました。

今回のサマーフォーラムでは「無関心であることの罪」が語られました。平和は努力なしに継続できるものではないことも学びました。では、私たちはどのように行動したらよいのでしょうか。皆さんと一緒に考えていきたいと思います。

              会長  宮澤典子