変わるもの 変わらないもの 変えなければならないもの 変えてはいけないもの

 4月の全通研は全国各地で支部の総会や代議員会ブロック別会議などが開催され、大忙しです。宮通研も4月12日に2025年度定期総会を終え、新しい年度がスタートしました。年度替わりには転入や転出により、宮通研会員にも移動があります。宮城を離れた皆さま、ぜひ移動先の全通研支部でも活動を続けていただきたいと思います。宮城に来られた皆さま、これまでも宮城っ子だった皆さま、新年度も宮通研ライフをお楽しみください。宮通研は会員の皆さまと運営委員が一緒に作っていく会です。どうぞよろしくお願いいたします。

 

 2024年度は全通研創立50周年ということで、50年間を振り返り、50年間を学ぶ行事や話題が多かったと思います。定期総会のあとに行われた特別企画でも、「全通研とわたし(たち)」と題して、全通研と宮通研と皆さんの活動の歴史を振り返る時間をもちました。

ここで、全通研クイズです。全通研の生年月日はいつでしょうか?

答えは、1974年6月3日です。ヒトの妊娠期間は280日(40週)ですが、全通研の妊娠期間は2年間ありました。ゾウ並みです。1968年に福島で第1回全国手話通訳者会議が開催されてから、毎年手話通訳者会議が開催されるようになりました。第5回会議の際に全通研を創ろうと決議され、2年後の1974年青森で第7回会議が開催された最終日に全通研は誕生しました。毎年夏に開催している全国手話通訳問題研究集会~サマーフォーラムは1968年から通算で、今年京都で開催されるサマーフォーラムは第58回目になります。

続きまして、宮通研クイズです。宮通研の生年月日はいつでしょうか?

答えは、1988年3月27日です。宮通研もやはり長い妊娠期間を経て誕生しました。全通研は創立以来、「権利としての手話通訳」を基本理念として、組織拡大を図り、都道府県単位の全通研支部の確立とブロック組織の確立を目指していました。第一号は山口支部で、全通研が誕生した5か月後の1974年11月に設立しました。第二号は大阪支部で1975年12月に設立しました。しかし、宮城の支部設立はなかなか進みませんでした。通訳者の組織化は重要だと思いつつも、関係者の賛同を得られなかったのです。そこで、まず、「宮城県手話奉仕員連絡協議会」を立ち上げました。当時はまだ「手話通訳者」ではなく、「手話奉仕員」の養成と派遣が行われていた時代でした。奉仕員養成講座を修了し通訳活動を始めたものの、どのように通訳活動をすべきかわからない、通訳活動を進めるための研修の場がないなど、手話奉仕員の悩みや不安を共有し、乗り越えるための場として立ち上げたものでした。そこでは、不定期ながら勉強会を開催し、機関紙「Together」を発行し、手話奉仕員同士のつながりを目指しました。あわせて全国とのつながりを持つための宮城支部設立の根回しと準備を進め、3年余の準備期間を経て、全国で39番目の支部として全通研宮城支部(現宮通研)が誕生しました。設立総会は1988年3月27日、会場は当日の宮城県心身障害者福祉センター(現宮城県障害者福祉センター)で、今回の特別企画を開催した会場でした。

 全通研には及ばないものの、宮通研にも37年の歴史があります。設立以降、何をどうすればいいのか模索しながらも実施してきたのは、研修と機関紙発行でした。手話奉仕員連絡協議会時代から引き続き機関紙発行は大切にしてきました。現在の機関紙『まざらいん』の題字の左隣に小さく「宮通研MAIL」と入っていますね。昔は「宮通研MAIL」という名称でした。ところがなぜか(単に間違っていただけですが…)「宮通研MALE」となっていて、数年後にこれって綴りが間違っているのでは?と指摘され、慌てて「宮通研MAIL」に修正したという笑い話もありました。また、宮城県手話サークル連絡協議会(現在は休会中)と合同の研修会や特別手話講座、全青研の記念講演の日本語訳に取り組んだ学習会などが思い出されます。仲間内の学び合い、他力本願で有名人を招致する、笑う門には福来る精神で楽しんでやろう、などなどいろいろなことに挑戦してきたと思います。とっておきの音楽祭や『手話と法律・裁判ハンドブック』の監修などは他に例のない画期的な取り組みではないでしょうか。

 全通研集会~サマーフォーラムは毎年持ち回りで開催されますが、宮城でも2007年第40回集会を担当しました。8月3日~5日仙台国際センターを会場に1,099人の参加者を迎えて開催されました。宮城県聴覚障害者協会とともに2年間かけて準備し、たくさんの笑顔で幕を閉じることができました。

 一方、楽しいことばかりではありませんでした。宮城にとって2011年の東日本大震災は忘れようにも忘れられない出来事です。宮城県聴覚障害者協会と宮通研は発災直後から救援本部を立ち上げて、会員や関係者の安否確認と支援活動を開始しました。また、厚生労働省の呼びかけにより全国の自治体から宮城に手話通訳者が派遣され、全国から救援物資が届くなど、物心両面で全国の人たちに支えられました。その後、宮城県が被災聴覚障害者支援センター(みみサポみやぎ)事業を実施し、現在の宮城県聴覚障害者情報センターとなりました。当時、支援活動の際に「FIGHT 宮城」を胸に掲げた復興Tシャツをみんなで着ましたね。連帯の証にとみんなで着用していましたが、ある会員さんの「Tシャツに書かれている3.11は両親の命日です」という一言にハッとしました。当時、支援活動に必死になり、いつの間にか視野が狭まり傲慢になっていた自分に気づきました。その後、常に胸に留め置く大切な言葉となりました。

 

 全通研宮城県支部は33名でスタートしました。活動を模索する中会員がわずか14名になった年もありましたが、2002年には過去最高の195人になりました。全通研が法人化した2010年に、全通研宮城県支部は「宮城県手話通訳問題研究会(宮通研)」と改名しました。設立以来37年の間に会員や運営委員の顔ぶれも変わりました。この37年間に取り組んできたことは膨大で、行事の形態や重点的な取り組みも変化してきました。それでも私たちは常に手話通訳制度の充実を目指し、聴覚障害者のすぐ近くで共によりよい社会を作るために活動を続けています。変わるもの変わらないもの、変えなければならないもの変えてはいけないもの。何を変えるべきか、何を変えてはいけないのか、それは会員の皆さんと語り合う中で見つけていきたいと思います。38年目の宮通研は今宮通研の会員である皆さんが作ります。みんな一斉に38年目のスタートラインに立っているのです。新年度もどうぞよろしくお願いいたします。 

      

   会長  宮澤典子