“伝えたつもり”の危うさ ― 忖度と推論のあいだで

 私たちは日常的に、ことばでやり取りをしています。家族や同僚との会話では、「言わなくてもわかるよね」「察してくれるだろう」という感覚が、自然に働くことも少なくありません。また、実際にそれで通じることも多々あります。それでも、ちょっとした言い回しの違いで誤解が生じたり、思っていた意味と違って捉えられていたという経験は、誰しも一度はあるのではないでしょうか。

同じ日本語を使っていてさえ、コミュニケーションは決して簡単ではありません。ましてや、異なる言語・異なる文化をつなぐ通訳の現場では、「わかりにくさ」や「あいまいさ」と日々向き合うことになります。

 

日本語では、はっきり言い切らず、含みを持たせる表現がよく使われます。相手に対する配慮であったり、場の空気を和らげるためであったり、その背景には人間関係を大切にする文化があります。その一方で、その「含み」をどう受け取るかは、受け手の経験や立場によって大きく左右されます。

ここでよく話題になるのが、「推論(すいろん)」と「忖度(そんたく)」の違いです。推論とは、発話の文脈や状況、これまでのやり取りなど、根拠を手がかりに意味を組み立てていくことです。一方、忖度は、ことばに内包された相手の気持ちを先回りして想像し、まだ言われていない意味まで補ってしまうこととも言えます。どちらも人間の自然な認知の働きですが、通訳の場面では、この二つの境界線がとても重要になります。

「きっとこう言いたいのだろう」「この場面では、こういう意味に違いない」など、善意からの判断であっても、そこに通訳者自身の価値観や解釈が入り込んでしまうと、話し手の本来のメッセージから少しずれてしまう可能性があります。通訳における「正確性」は不可欠のものですが、何をどのように伝えれば正確になるのでしょうか。

私たち通訳者は、「完全にわかる」ことができない不確実さを抱えたまま、その場で判断を重ねています。わからなさをゼロにすることはできません。それでも、できる限り根拠に基づいて考え、必要であれば確認し、チームで共有しながら精度を高めていく。その積み重ねが、専門職としての信頼を支えているのだと思います。

 

コミュニケーションは、難しいものです。でも同時に、人と人をつなぐとても大切な営みでもあります。わかり合えない可能性があるからこそ、ことばを尽くそうとし、相手のメッセージを理解しようとします。通訳という仕事は、その「わかろうとする努力」を社会の中で支える役割を担っているのではないでしょうか。

「伝えたつもり」にならず、常に立ち止まりながら考え続けること。その謙虚さと誠実さこそが、私たちの専門性の土台なのかもしれません。忙しい日々の中でも、仲間と共にあらためてコミュニケーションの難しさと大切さを、静かに見つめ直す時間を持ちたいものだと思います。

 

 

会長  宮澤典子